本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

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【書評】『人は、なぜ他人を許せないのか?』(中野信子)

お薦めの本の紹介です。
中野信子さんの『人は、なぜ他人を許せないのか?』です。

中野信子(なかの・のぶこ)さんは、脳科学者・認知科学者です。

誰でも陥る可能性のある「正義中毒」の罠

自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもない。
それなのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめさずにいられなくなってしまう。

それは「許せない」が暴走してしまっている状態です。

中野さんは、こうした状態を正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼んでいます。

「間違ったことが許せない」
「間違っている人を、徹底的に罰しなければならない」
「私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない」

このような思考パターンがひとたび生じると止められなくなる状態は、恐ろしいです。本来備わっているはずの冷静さ、自制心、思いやり、共感性などは消し飛んでしまい、普段のその人からは考えられないような、攻撃的な人格に変化してしまうからです。
特に対象者が、例えば不倫スキャンダルのような「わかりやすい失態」をさらしている場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、正義を振りかざす格好の機会となります。

こうした炎上騒ぎを醒(さ)めた目で見ている方も多いと思います。しかし、正義中毒が脳に備わっている仕組みである以上、誰しもが陥ってしまう可能性があるのです。もちろん、私自身も同様に、気をつける必要があると思っています。
また、自分自身はそうならなくても、正義中毒者たちのターゲットになってしまうこともあり得ます。何気なくSNSに載せた写真が見ず知らずの他人からケチをつけられ、「不謹慎だ」「間違っている」などと叩かれてしまうようなケースは、典型例だと言えます。
正義中毒の状態になると、自分と異なるものをすべて悪と考えてしまうのです。自分とは違う考えを持つ人、理解できない言動をする人に「バカなやつ」というレッテルを貼り、どう攻撃するか、相手に最大級のダメージを与えるためには、どんな言葉をぶつければよいかばかりに腐心するようになってしまいます。
ある状況においてどちらの言い分が正しいのかはさておき、双方が互いを正義と確信して攻撃を始めてしまったら、解決の糸口を見出すことは非常に困難です。

『人は、なぜ他人を許せないのか?』 第1章 より 中野信子:著 アスコム:刊

本書は、「正義中毒」を脳科学的に解説し、その罠に陥らないための方法についてわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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SNSが隠れていた争いを「見える化」した!

誰かを許せないという感情は、人間が社会を作ってきた歴史とともに常に存在していました。

中野さんは、この状況を「見える化」してしまったのが、インターネット社会の出現、とりわけSNSの普及ではないかと指摘します。

 匿名(とくめい)性を盾(たて)に、根拠の怪しい情報を書き込んだり、あるいは真偽不明な告発や犯罪予告が行われたりするインターネット空間が出現してから、すでに20年以上の時間が経過しています。当初こうしたインターネットの世界は、アンダーグラウンド的なものでした。少なくとも、社会の多くの人がそこに参加しているとは言いがたく、あくまで現実社会とは平行的に存在する別の世界だというコンセンサスがありました。
しかし、ツイッターやフェイスブックを始めとするSNSが、ここ10年ほどの間に急速に普及したことで、状況は一変しました。誰もが参加でき、発信できる場としての地位が確立されたことで、インターネットの世界が現実の世界と重なり合うようになったのです。今やインターネットの情報発信は世論を動かす力まで持つようになりました。

この状況は、「許せない」という感情のごく個人的な処理プロセスに、いくつかの決定的な変化を生みました。
例えば、有名人の不用意な発言やスキャンダルなどのわかりやすい不正義に対して、無数の一般人が積極的に言及する状況を生みました。さらに、一般人でさえ、うっかり不正義、または不正確とみなされる情報をSNS上で公開してしまえば、一度も会ったことのない、会う可能性すらない赤の他人からもなじられてしまうようになりました。それがエスカレートし、複数の人から攻撃的なコメントが頻回(ひんかい)に寄せられて、人格攻撃を含むようなやり取りが短時間のうちに飛び交うこともあります。いわゆる「炎上」です。
炎上が起こっているときには、多くのケースで匿名のアカウントが使われます。攻撃者はよほどの不法行為でも働かない限り、自らに直接危害が及ぶことはなく、事実上安全であることが多いようです。面倒なことになりそうになったら、アカウントを削除、あるいは放置してしまえばよいということなのでしょう。

こうして人は、自らの意見に反する有名人に安心して罵りの言葉をかけ、炎上した一般人を見つけたらそこに加勢し、聞かれてもいないのに自説を自信満々に開陳してしまうようになりました。自分が支持している著名人が他の著名人と論争でもしようものなら勇んで加勢します。その反面、今まで支持していた著名人の言動が受け入れられなくなると、今度は180度態度を変えて、攻撃の対象にすることもあります。

『人は、なぜ他人を許せないのか?』 第1章 より 中野信子:著 アスコム:刊

誰でも自分の考えを発信し、それを誰もが簡単に受け取ることができる。
そんなインターネット社会の負の部分が、正義中毒の蔓延といえます。

そんな世の中だからこそ「許せない感情」の暴走から身を守る手段を身につけることは必須となりますね。

日本は「優秀な愚か者」の国

正義中毒は、どこの国のどんな人でもなり得ます。
ただ、どんな人を逸脱者とするかという基準は、国や地域によって大きく異なります。

異なる文化、考え方と接するうえで最良の方法。
それは、どちら側にもスイッチできる柔軟な考え方を持ち、うまく両者の「良いとこ取り」をしていくことです。

 誤解を恐れずに言えば、日本人は摩擦を恐れるあまり自分主張を控え、集団の和を乱すことを極力回避する傾向の強い人たちだと感じます。これをあえて自省的に弱点として考える視点で見れば、日本は「優秀な愚か者」の国ということになるでしょう。
日本では集団の抱えている、いろいろな不都合や問題点に気づいて、空気を読まずに指摘してしまう人が、しばしば冷遇されます。そのことを理不尽であると抗議して声を上げたなら、なおさら集団から圧力がかかり、最後は排除されてしまいます。
一方、現代の日本に代表されるような安定した社会で優秀と評価される人は、これもまた自省的にあえて強めの言い方をすれば、「何も考えずにいられる人」かもしれません。集団のルールを守り、前例を踏襲し、集団の上位にいる人の教えや命令に忠実に従う、従順な人が重用(ちょうよう)される傾向は否めません。これは政府や企業に限らず、最高学府であるはずの大学でさえ例外ではありません。

日本国内において、東京大学は世界に通用する大学と思われているでしょうし、実際に学位取得者によるノーベル賞受賞者数は、国内で最も多くなっています。
しかし、東大も京大も、他の国立大も、独創的な研究ができているかと問われたとき、自信を持って肯定できる人は限られているのではないかと危惧します。
また、個々の事情もあるのでしょうが、最先端の研究をしたいという前向きな理由で海外に出る人もいる一方で、とにかく息の詰まる日本の現状から抜け出したい、逃げ出したい、という人も大勢います。私は中途半端な研究者でしたので日本に戻ってきましたが、本当に優秀な研究者ーー特に女性で優秀な研究者は、そのまま戻らないということが相当あるようです。
大変残念なことですが、日本国内においては、独創的で自由な研究は、大規模になるほどやりにくい土壌があるのかもしれません。反面、日本人研究者はイグノーベル賞(「人を笑わせ、そして考えさせる研究」に対して贈られる、ノーベル賞のパロディ)の常連です。これは、お金がかからず小規模でできる研究であれば、結果を出しやすいということを端的に示しているように思います。

チーム内での摩擦を回避するために、イノベーティブな発想力のある人がアイデアを大きな声で主張できず、才能を開花させることができないでいるのだとしたら、これは大変残念なことで、国家の損失だと多くの方が思うでしょう。ここには日本の大きな特徴が隠れていると思うのです。

『人は、なぜ他人を許せないのか?』 第2章 より 中野信子:著 アスコム:刊

規律を重視し、集団の「和」を大事にする、日本人的な性質。
長所でもありますが、行き過ぎれば、短所にもなります。

いかに、自分と違う考え・価値観を許容する風土を作り出すか。
それが、日本の社会から「正義中毒」をなくすためのポイントになります。

「正義中毒」のエクスタシー

「正義中毒」は、脳科学的な観点から、どのように説明できるのでしょうか。

中野さんは、そもそも人間の脳は誰かと対立することが自然であり、対立するようにできていると述べています。

 人は、本来は自分の所属している集団以外を受け入れられず、攻撃するようにできています。
そのために重要な役割を果たしている神経伝達物質のうちの一つが、ドーパミンです。私たちが正義中毒になるとき、脳内ではドーパミンが分泌されています。ドーパミンは、快楽や意欲などを司っていて、脳を興奮させる神経伝達物質です。端的に言えば、気持ちいい状態を作り出しています。
自分の属する集団を守るために、他の集団を叩く行為は正義であり、社会性を保つために必要な行為と認知されます。攻撃すればするほど、ドーパミンによる快楽が得られるので、やめられなくなります。自分たちの正義の基準にそぐわない人を、正義を壊す「悪人」として叩く行為に、快感が生まれるようになっているのです。

自分はそんな愚かしい行為からは無縁だ、と考える方もいるでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?
例えば、テレビを見ていたら、どこかにある親が自分の子どもを虐待しているような、ひどいニュースが流れていたとします。食べ物を与えない、暴言を浴びせる、殴る、放置する、その様子を動画で撮影する・・・・・・そして傷つき、命を落とす子ども。ひどい話で、およそ子を持つ親の所業とは思えないような事件です。
マスコミは連日詳細を報じます。この親は他にもこんなひどいことをしていた、周囲からこんな証言が得られた、子どもがSOSを出していたのに、なぜ行政はうまく活かせなかったのか。このような人間に親の資格があるのか、地域は、学校は、児童相談所は何をしていたのか・・・・・。さまざまな思いが去来することでしょう。

このようなとき、こうした出来事とは全く無関係な一人の視聴者としての私たちは、無関係ゆえに絶対的な正義を確保している立場にいます。自分は、こんな風に子どもを虐待しないと思っています。そして、正義の基準からははみ出して注目を浴びてしまっている人に対して、いくら攻撃を加えようとも、自らに火の粉がふりかかることはありません。
「ひどいやつだ、許せない! こんなやつはひどい目に遭うべきだ、社会から排除されるべきだ」と心の内でつぶやきながら、テレビやネットニュースを見て、自分には直接の関係はないのに、さらなる情報を求めたり、ネットやSNSに過激な意見を書き込んたりする行為。これこそ、正義中毒と言えるものです。このとき人は、誰かを叩けば叩くほど気持ちがよくなり、その行為をやめられなくなっているのです。

『人は、なぜ他人を許せないのか?』 第3章 より 中野信子:著 アスコム:刊

誰でも、自分なりの「正義」を持っています。
必然的に、その「正義」を脅かすものは「悪」であり、脅かす人は「悪人」となります。

自分に関係があろうが、なかろうが、「悪人」は集団を脅かす外敵であるため、攻撃の対象になるのですね。

ドーパミンをトリガー(引き金)にした「正義中毒」の回路。
それが、すべての人の脳に、生まれながらに備わっているということです。

私たちは、よほど気をつけないと「正義中毒」の刃を誰かに向けてしまいかねません。

不安定・過酷な環境に身を置く

「正義中毒」の暴走を抑え、理性的に判断し、行動する。
その核となる働きをするのが、脳の中の「前頭前野」です。

前頭前野は、相手の反応を想像する機能自身の行動の善悪を自身で判定する機能など、いったん立ち止まって自らの行動を見直し、自らのことを制御するという一連の流れを担っている重要な器官です。

前頭前野は、30歳くらいをピークに、年齢とともに衰えていきます。
中野さんは、前頭前野を鍛える方法のひとつとして、「不安定・過酷な環境に身を置く」ことを挙げています。

 特におすすめしたい方法は、あえて不安定な、あるいは過酷な環境に身を置いてみることです。ハードルの高いことのように聞こえるかもしれませんが、こうする意味は大きいのです。
戦乱、混乱が続いて社会が不安定化し、価値観が揺れ動いているような世の中だと、前頭前野の司る機能を活用しなければ、生き残ることすら難しくなることもあります。そこまで極端な状況を選択しなくてもよいのですが、未知の状況、予測不可能な自体に対処するには、それまで蓄積してきた知識や常識、あるいは社会的信用やポジションだけでは不十分で、新たな情報の収集と、科学的思考、客観的思考が欠かせません。そのなかでうまく乗り切ることができれば、裸一貫から財を築き上げたり、新しい事業を起こして成功を収めたりするなど、大きく飛躍するチャンスもつかめるかもしれません。

反対に、安定した社会ではシステムの維持が大きな目標になるため、相対的に新たな科学的思考や客観的思考の重要性は、残念ながら下がります。個々の人生も安定化を志向するので、例えば大富豪が一夜にしてすべての財産を失ったり、経済的に厳しい環境で育った人が大逆転で富裕層にのぼり詰めたりするような大胆な階層移動も少なくなります。自らが強く望まない限り、いわゆる決められたレールの上を進むような人生の価値が高くなるので、それを選好する人が多くなるのです。このように社会が安定していくと、自分の所属する集団のルールが、社会全体のルールである、という錯覚を起こすようになります。違うルールもある、ということが理解しづらくなっていくのです。
経済的に恵まれた環境に育ち、学力の比較的高い人は、同じような水準の人たちが集まる学校に幼いうちから入り、いわゆるエリート的なキャリア形成を志向します。他方、金銭的な事情で進学を諦めたり、中学や高校を卒業してすぐに働かなければいけなかったりという環境で育つ人も少なくありません。
そして彼らは互いに、「高卒は使えない」とか「大学なんて遊び場でしかない」「東大卒エリート官僚が日本をむしばんでいる」「底辺と関わりたくない」などと罵り合う事態を招いています。これは結局、自分とは異なる、経験したことのあるルールと異なるルールを持つ集団に対して理解や共感がしにくくなったことによる、ある種の混乱と見ることができます。

では、異なる階層間でも、互いのルールに寛容に接し共感し合えるようにすることはできるのでしょうか。わざわざ社会の秩序を乱し、極端なことを言えば、現在の社会を一度すべてご破算にするようなことをしてゼロから仕組みを再構築しよう、というのはあまり現実的ではありません。
代わりに、古くから取られている方策があります。村落共同体で行われてきた祝祭です。このとき、共同体のルールは一時的にリセットされ、人間関係は流動化(その一時だけであっても)されます。その際、共同体のルールから解放された人同士の交流が促され、集団バイアスを乗り越えた形での共感が可能になるという仕組みです。また、より穏やかで長期的な形では、恵まれた環境を「寛容であることを義務として課されている」と捉え直すというやり方があります。欧州の伝統的なnoblesse oblige(ノブレス・オブリージュ。身分の高いものはそれに応じて果たさねばならぬ責任や義務があるという道徳観)という考え方がこれに相当するでしょうか。
上流階級の人が跡継ぎを育てる際に、修行の意味でわざと違った環境を経験させるのは、その典型です。例えば大商家の跡取りであれば、商いの道理とともに、従業員や顧客の心理をわかっていなければいけません。しかし、生まれてからずっと裕福な家庭で過保護に育ってしまうと、階層の違う人々と接する機会に恵まれません。そこで、わざと家から出し、違う環境に放り込んで学ばせるわけです。厳しい環境に身を置けば、メタ認知の力は上がります。

『人は、なぜ他人を許せないのか?』 第4章 より 中野信子:著 アスコム:刊

慣れ親しんだことをするのは、勝手がわかっているので安心感があります。
何も考えなくとも、体が自動的に動いてしまう部分もあります。

「習慣の力」は、私たちの生活には欠かせないものです。
しかし、そればかりの生活では、「考えない=脳を使っていない」ということになります。

自分からアウェイの厳しい環境に飛び込んでいく。
その意識が精神(メンタル)だけでなく、脳(マインド)を鍛えるのですね。

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世の中の争いごとは、ことごとく、その根本をたどっていくと「正義中毒」に行き着きます。

「自分たちが正義である」と(頑(かたく)なに信じ、それ以外の思想や考え方を「悪」であると切り捨てる。
そんな正義と正義のぶつかり合いが「戦争」となり、多くの悲劇を生んできたといえます。

「正義中毒」をなくすことは、すなわち、争いごとの種をなくすこと。
ひいては、戦争のない世界を実現することにつながります。

他人を許せる、寛容な心を育む。
そのためには、なぜ「正義中毒」の暴走が起こるのか、そのメカニズムを知ること。

国や言語の垣根が低くなり、世界規模の交流が進む現代社会。
ちょっとした書き込みやつぶやきが、大きな騒動に発展する恐れが大きくなっています。

「正義中毒」の罠に陥らないためにも、ぜひ、お手に取って頂きたい一冊です。

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