本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『最高の死に方をするための最高の生き方』(並木良和)

お薦めの本の紹介です。
並木良和さんの『最高の死に方をするための最高の生き方』です。

最高の死に方をするための最高の生き方

並木良和(なみき・よしかず)さんは、スピリチュアル・カウンセラー、作家です。
幼少期よりサイキック能力を自覚され、高校入学と同時に霊能力者に師事されています。
現在、7000人以上のクライアントを抱えられ、多くのワークショップ、講演会も開催されるなど、ご活躍中です。

私たちは、何のために生まれてくるのか?

「いずれは必ず死ぬのなら、何のために生まれてくるのか」

誰もが、そんな疑問を一度は抱いたことがあるでしょう。

 この世に生まれてきたということは、あなたは必ず何らかの目的をもって生まれています。意味もなく生まれてくることはありません。
では、その目的とは何なのか。そのことに向き合うには、この本のテーマである「死」というものや「死後の世界」に意識を向けることが役立ちます。

僕は、物心ついた頃から、霊的な世界に強い関心を持っている子どもでした。霊が視(み)え、過去世が視え、生まれたときから「霊能者になる」という感覚をなぜかもっていました。そして、霊的能力が発達するにつれて、スピリチュアルな真実をお伝えすることが、僕の今回の人生のテーマなんだと気づき、こうやって本を書いたり講演をしながら僕が知っている真実をみなさんにお伝えしています。

この本では何を伝えたいのかと言えば、もちろん、死や死後の世界についての真実をお伝えしたいということも一つですが、さらに、死後の世界を知ることでこの生がより充実していく、ということをぜひ知っていただきたい、体感していただきたいと思っています。
前世や死後の世界があると信じている人もいれば、「死んだら終わり」と思っている人もいるでしょう。また、「死後の世界はあるよね」と言いながらも、死ということを考えると急に不安になったり怖くなったりする人もいるでしょう。
死は怖いものではありません。
死後の世界を本当の意味で理解すると、死というのはこの世から見たときの概念であって、もっと大きな視点で見るとただの「移行」なんだとわかります。そして、そうわかると、「だったら、この人生をどう生きていけばいいのか」ということが見えてきます。実際に、僕自身がそうでした。

この本では、死の話、つまりは「この世からあの世へ」という話からはじまり、あの世の話、「あの世からこの世へ」の話、「この世にいる人からあの世にいる人へ」の話、そしてこの世の話ーーと、この世とあの世が交互に出てきます。
それは、僕たちの魂が長年経験していることと同じです。僕たちはまさに、この世からあの世に行き、あの世からこの世へ来て、そしてまたこの世からあの世へ戻るということを繰り返してきているのです。

本書を読み終わったあとには、死というものの概念が変わり、意識が軽やかになっていることに気づくはずです。
死とはどういうものか、目には見えない死後の世界とはどういうものかを知ることで、僕たちのこの人生が輝きます。死後の世界を思ったり、考えたり、学んだりすることに一つも損はありません。
そして、あなたが何歳であっても、たとえ死というものをすごくリアルに感じるタイミングだったとしても、考えたり学んだりするのに遅すぎることはありません。あなたにとって、今がタイミングだったということ。
また、死についての話だからといって、深刻になりすぎる必要もありません。
楽しく学び、そしてその知識をいかして、最高の人生のストーリーを生きましょう。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 はじめに より 並木良和:著 PHP研究所:刊

本書は、「死」や「死後の世界」をわかりやすく解説し、それにより「生」や「生きる意味」をより深く理解するための一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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死とは、「新しいはじまり」

並木さんは、千回以上の輪廻転生の経験をもっており、記憶している過去世(過去の人生)だけでも30ほどあります。

そんな並木さんにとって、死とは「新しいはじまり」だと述べています。

「死=終わり」という捉え方をする人が多いですが、真実は逆。死とは“はじまり”。次の「生」へとつながっていく移行ポイントが、死なのです。

肉体を脱いで、まったく違う形態に移行するだけのこと。
今、僕たちがいる物理的な世界から、霊界という精神的な世界へと移行するだけ。
たとえるなら、今いる部屋から隣の部屋に移るようなものです。

けれども、死んでからさまざまな宗教的な儀式が行われたり、国や文化によっても違いますが、一般に、死というものをあまりにも大仰(おおぎょう)に捉えすぎるきらいがあります。そうすると、死というものをかえって忌み嫌うようになったり、ネガティブなイメージが植え付けられたり、死について語ることがタブーとなったり、死のまわりにたくさんのドラマが生まれてしまうのです。
でも、「『死』とはなんですか?」と聞かれたら、僕は、「単に形が変わるだけです」と答えます。
もうこれしかないのです。
僕たちの存在形態が変わるだけ。肉体を脱いで魂そのものになる。
着ている服を脱ぎ捨てるだけのことです。
死は決して終わりではなく、この部屋から向こうの部屋に行って、あるいは、着ている服を脱ぎ捨てて、新しい生がはじまるのです。
そこには、良いも悪いも、ネガティブもポジティブもありません。勝手に人間がいろいろな意味づけをして、ああでもない、こうでもないと、死というものを大仰なものにしてしまっているだけなのです。

今いる部屋から隣の部屋に行くのに、「ああ、怖いわ」なんて思いませんよね?
ただドアを開けて隣に行くだけですから。
着ているものを脱ぎ捨てるのも、怖くありませんよね?
死というのもそれと同じです。
「やだー、死にたくない!」などと抵抗しなければ、心地よさに包まれたまま、スルンと肉体から魂が抜けていきます。それはもう、エクスタシーとでもいうような気持ちの良い体験です。
ところが、今まさに肉体から抜け出ようとしているのに、「いや、ちょっと待って。まだまだこの肉体で生きていたいのよ」なんて抵抗すると、「いやいや、もう無理なの。もうあんたの体に宿っていられないんだから」と引っ張り合いが起こって、死へのプロセスが苦しみに変わってしまう。
ではなぜ僕たちは「まだ死にたくない!」「まだ生きていたいの!」と、ついしがみついてしまうのでしょうか。
一つには、それまでの人生に後悔があるからでしょう。
後悔が多ければ、この世界を離れることに対して抵抗が生まれます。「まだまだやりたいことがあった」「あのときにこうしていれば・・・・・」という後悔が多ければ多いほど、執着が生まれる。
一方で、「もう十分にやったわ」「やりたいことは十二分にやってきた」と思えたなら、しがみつくことはありません。軽やかに肉体を脱ぎ去ることができます。
おいしいご飯を食べてお腹いっぱいになって満足しているときに、どんなに豪華なごちそうが目の前に出ても、「もう十分、もういらない」となりますよね。それと同じようなものです。

もう一つは、死をもってすべてが終わってしまうという勘違いから。
死んだら自分という存在が消えてしまう、自分というものがなくなってしまうという恐怖感から、この生にしがみついてしまうのでしょう。
もちろん、死によって自分が消えてしまうことはありません。
自分というものは、この世から向こう側に渡っても、連続して存在し続けます。僕たちの性格や性質といったものも、そう変わりません。
たとえば洞察力が多少高まったり、視野が広くなったりすることはあり得ます。肉体という狭い檻(おり)のなかから外に出ることで、広く見渡せ、高い視点から見られるので、物事の理解がより深まったり、視野が広がったりといった変化はあります。
でも、亡くなったからといって、急に聖人君子のように変わったり、高尚になったりすることはありません。残念ながら、そんなに単純なものではないのです。

だから、死によって自分がなくなってしまうというのは、ただのイリュージョン(幻想)なのです。僕たちは幻想に恐怖しているのです。
死を恐れるのは、未知のものに対する恐怖ともいえます。でも、それを「既知」にしてしまったら、何も怖いことはありません。
大切なことなので繰り返してお伝えしますが、僕たちの魂は輪廻転生を繰り返し、これまでの過去生のなかで何度も何度も死を体験してきています。だから本来は、死というのは既知のもの。怖いものではありません。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 第1章 より 並木良和:著 PHP研究所:刊

死ぬことで、私たちのすべてが無になるわけではありません。

なくなるのは、肉体だけ。
それ以外の性質や性格、いわゆる「自我」と呼ばれるものはなくならず、次の「生」へと引き継がれます。

死は、今の部屋から隣の部屋へ移動するようなもの。
本当の自分(魂)にとってみれば、その程度のものなのですね。

一生分を洗いざらい振り返る

私たちは死ぬと、ガイドたちと一緒に自分の人生を振り替えることになります。

 映画館のスクリーンをもっともっと横に長くしたようなものに、自分の生まれた瞬間から、1歳、2歳、3歳・・・・・と、亡くなるまでのすべてのシーンが順に映し出されるのです。自分が辿ってきた道がすべて録音されていて上映されるような感じです。それを、ガイドたちと並んで見ていました。
一生分を一度に見るのですが、向こうの世界ではこちら側とは時間の流れが違うので、そんなには長くは感じません。あっという間といえば、あっという間。ただ、「一生分見た」、つまりは60歳で亡くなったとしたら「60年分見た」という体感のようなものは残ります。

自分の一生が映画のように流れていくわけですが、映画と大きく違うのが、ただ見るだけではなく、体感しながら見るということ。
映っているシーンを見ながら、そのときに自分が何をやったのかはもちろん、本当は何を感じ、何を考え、何を思っていたのか、さらには、それを相手が受け取ったときに相手がどう感じて、どう思っていたのかということまで、すべて体感することになります。
簡単に言えば、たとえば4歳のときに近所の子と遊んでいて、遊んでいるうちにその子と喧嘩になって、その子をバーンとぶってしまったとします。そのシーンを見ると、殴った自分の手の痛みも感じるし、バーンとぶたれた子の側の痛みも、そして悔しかったり悲しかったり怖かったりといったその子の感情も、まるで我が事のように感じるのです。
まさにやってきたことのすべてを体験することになります。

また、人生のなかで大事な選択を迫られる局面がありますよね。
たとえば、結婚するかしないか、就職するかしないか、右に行くか左に行くか、など。
そういう岐路に立たされたところは、クローズアップされます。そのときのシーンが、ものすごく拡大されるような感じで映し出されるのです。
そのシーンを眺めていると、そのときに自分がどう感じて、どう思ったのか、「だから、これを選択したんだ」ということが明確にわかります。ごまかしはききません。

たとえば、ある仕事のチャンスがやってきたときに、そのチャンスを選ばず、ふいにしてしまったとします。自分にとって大きなチャンスだったはずなのに、なぜ、それを掴もうとしなかったのかーー。
そのシーンを見ると、そのときの自分は、表面上は「この仕事はちょっと自分に合わないような気がする」「自分には他にやりたいことがあるから、選ばないんだ」などと言っている。でも、心のなかの深いところでは、「チャレンジして失敗したらどうしよう」「もしも失敗したら立つ瀬がない」などと考えていることがわかるのです。
結局のところ、まわりの目を気にして、失敗するくらいだったら最初からチャレンジしないほうがマシ、もっと成功する見込みの高いことを選んだほうがいい。といった計算を働かせて選ばなかった、ということが明確にわかってしまうわけです。
そうすると一緒に見ていたガイドから、「お前は、本来はこれを体験するために生まれ変わったのに、それをしなかったね」などと言われます。
自分自身も、そのシーンを振り返りながら、「どうして選ばなかったんだろう」「逃げちゃいけない場面だということは、深いところではわかっていたのに・・・・・」と、ものすごく後悔することになります。隠していた自分の欲や見栄といったものを、改めて痛感することになるのですね。
そんなふうに、重要な局面になるとクローズアップされて、そこを検証するということを繰り返しながら、ガイドと一緒に一生を振り返っていきます。

よく、「地獄はあるんでしょうか?」「地獄に落ちるのが怖いんです」と言う人がいます。
安心してください。向こうの世界に、いわゆる地獄というものはありません。
ただ、生まれてから死ぬまで自分がやってきたことを、洗いざらい体感をもって一生を振り返るということは、生き方によっては地獄というものになるかもしれません。あとから振り返ったときに、僕はそう思いました。

人生というものを、自分に素直にありのままに誠実に生きたなら、一生を振り返る体験もそれに準じたものになるでしょう。
でも、自分自身が真に望んでいることから外れる生き方をしていたら、一生を振り返りながら、ものすごい後悔を感じることになります。
また、人を騙す、傷つける、裏切る、盗む、搾取するといった誠実ではない生き方をしてきたら、相手の感じた痛みや苦しみ、辛さ、悔しさ、憎しみなどをそのまま自分が体験することになるわけです。誰も逃れることはできません。しかも人生のなかで行なってきたことをすべて体験するわけですから、それは、とても辛い苦しい体験になるでしょう。
だから、そうしたことが多ければ多いほど、地獄のような時間を味わうことになるのです。
人によっては、このプロセスは非常に苦しいものになるということを頭に入れておいてください。
宇宙には、「与えたものを受け取る」という法則があります。
一生を振り返るときには、まさに自分のやってきたこと、自分が与えてきたことをすべてそのまま受け取る、刈り取ることになるのです。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 第2章 より 並木良和:著 PHP研究所:刊

私たちは「魂の目的」を持って生まれ、死んだときに、それがどれくらい達成されたか検証される。
ちょっと恐ろしい気もします。

ただ、そのようなイベントがあるとわかっていれば、より人生を大事に生きようと考えるようになりますね。

「どんな人生を体験するか」を自分で決めて生まれてくる

私たちが、何度も何度もこの世に生まれ変わる理由。
それは、やり残したことがあるからつまりは「後悔」があるからです。

その「やり残し」を体験する目的をベースに、ガイドとともに話し合いながら、どんな国に生まれるのか、どんな両親のもとに生まれるのか、そしてどんな肉体条件をもつのかといったことを選んで生まれてきます。

 親を選んで生まれてくるということにしても、「親ガチャ」(どんな親のもとに生まれるかは運任せ、という意味)なんて表現があるぐらいですから、「どうしてこの親のもとに生まれたのだろう」「自分で選んだ覚えなんてない」などと思っている人もいるでしょう。
でも、もしも今回の自分の人生で体験すべきテーマに、たとえば「自立する」ということを設定したのであれば、なんでも先回りしてやってくれるような親のもとには絶対に生まれません。それでは自立心は養われませんから。
最初は、まわりの親と比べて、「うちの親は何にも親らしいことをやってくれない」「親のくせにどうして?」と思うかもしれません。でも次第に、「やってくれないなら、自分でやるしかない」と気づく。そうやって、自分を追い込むことで、自立心を養っていくことだってあるのです。
人生というのは、自分自身に仕掛けた壮大で精巧な“仕掛け”なのです。
だから、まったくもって誰かのせいにすることはできません。一見、自分にとって不利に見えるようなことでも、そこには何らか、自分が選んだ意図があります。
また、自分の興味の向く先、関心の矛先というのは環境によって、かかわっている人によって大きく変わってきます。そこで、また新しい道が拓かれ、新しい出会いがあり、そこからまた、新たな興味や新たな道が切り拓かれていく。その最初のきっかけは、もしかしたら、親が親らしいことをやってくれなかったことだったかもしれません。
でも、そのことには、より高い視点で見なければ気づけません。
その視点が確実に自分のものとなったなら、“この親”に感謝するということができるでしょう。「あ、そうか。何もしてくれない親だったけど、あの親のおかげで自分は今ここまで来ることができたんだ」「ありがとう。私がこのテーマをやり遂げるために協力してくれたのね」と、なるのです。

高い視点で見るということを理解したのは、僕の場合、一つのきっかけがありました。
今の僕を知っている人には信じられないかもしれませんが、僕も若い頃には「何のために生きているんだろう」と落ち込むことがあったのです。そのときには、生きることにすっかり絶望して「ああ、もう無理! 誰か助けてください」と、高次の存在たちに助けを求めたのです。高次の存在とは、高い意識レベルをもつ、肉眼では捉えられない存在のことです。
すると、その「助けて」をキャッチした高次の存在たちから、「楽しそうですね」と、思いもかけないメッセージが返ってきました。
悲しんでいたり打ちひしがれているときには「そうだね、辛いよね」と言ってほしい、辛さをわかってほしい、なんとなく寄り添ってほしいという期待があるものです。それで「辛かったわね、よく頑張りました」などと言われると、「ううっ」と感極まってしまう。そういうことを期待して、「助けてください」と言ったのに、「楽しそうですね」と言われたわけです。「え・・・・・、どういうこと?」となりますよね。
でも、その瞬間、僕は「この辛さを『楽しそうですね』と言えるそんな軽やかな次元があるのなら、その次元に行ってみたい」と思ったのです。だから、この「楽しそうですね」という一言がなかったら、僕は今のようにはなっていないと思います。

当時の僕の目の前には壁が立ちはだかっていて、「この壁の先には行けないんだ」と思い込んで、打ちひしがれていました。
でも、高次の存在たちは、ものすごく高いところからその様子を見ていて、「え、これってただの紙じゃん。フーッてやったら飛んでくんじゃないの?」という意識なので、そんな紙切れを前に打ちひしがれている僕は、まるで“絶望ごっこ”でもしているかのようで、楽しそうに映ったのでしょう。
今ならそれがとてもよくわかります。でも、目の前の壁に頭を突っ込んで近視眼的になっている僕たちには、とても紙には見えないのです。
しかも、どこまでも続く高い高い壁がそびえ立っているように見えてしまう。本当は上も横も空いてるのに、目の前しか見ていないから、「どこを見ても壁です」「もうこの先には行けない」「これ以上は進めない」と思い込んでしまうわけです。もっと引いてみれば、「え、こっち側、がら空きですよ」という話なのですが。
そういうおかしなことを好んでやっているように見えるから、良い悪いの区別がない平等な意識をもつ高次の存在たちは「楽しそう」と言うわけですね。人間というのは、本当にこうしたことをやっているのです。
わざわざ近視眼的に目の前のものを見て絶望感を体験する、とか。
逆にいえば、近視眼的にならなければ、絶望というものを、臨場感をもって体験することはできないのですね。
だから、僕たちは、わざわざ体験しているのです。
たとえるなら、恐怖感を体験したくてお化け屋敷に入るようなもの。「怖い、怖い」と言いながらホラー映画を見るようなものです。「怖い」ならお化け屋敷に入らなければいいじゃない、ホラー映画なんて見なければいいじゃない、でも楽しいから入る(見る)のですよね。それと同じなのです。
引いた目でみれば、自分がわざわざその絶望や辛さを体験しに行っていることがわかります。そして、そのことに気づくと、その不幸を不幸と思うことさえできなくなります。
だから、もしも悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、自分で自分に「楽しそうですね」と声をかけてみてください。自分から進んで悲しみのなかに入り、そこに浸っていることに気づくはずです。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 第3章 より 並木良和:著 PHP研究所:刊

人生は、私たちが体験すべきテーマを体験するための“ゲーム”のようなもの。
そのゲームは、自分でシナリオを描き、キャラクターをデザインし、自らプレイヤーとして操作しています。

自分で創ったゲームですから、倒せない敵もいないし、乗り越えられない試練はありません。
ある意味、クリアして当然のゲームです。

人生を引いた目で見る、つまり、プレイヤーの視点で眺めること。
それが、人生というゲームを楽しむコツだということです。

大切な人を自死で亡くしたら

並木さんは、寿命は、人生のカリキュラムとともに自分自身で決めてくるものだと述べています。

私たちは、自ら決めてきた寿命以上に生きることはないし、それより前に死ぬこともありません。
それは、自ら命を断つ「自死」でも、同じです。

 大切な人を自殺という形で亡くしたときには、病死や事故などとはまた違う、辛さや悔しさ、悲しみがあるかもしれません。
「どうして、何もしてあげられなかったのだろう」
「どうして、止めることができなかったのだろう」
「もっと、話を聞いてあげればよかった」
「もっと、優しくしていたら違ったかもしれない」
などと、たくさんの「どうして」や「もっと」が渦巻きますが、どんなことがあっても寿命でなければ死なないということの裏返しで、自死できてしまったということは、やっぱり死ぬタイミングだったのです。
だから、それを止めることはできません。

身近な人が自死という最期を迎えたときには、「あ、後悔じゃなくて理解だ」と思うようにしてください。「どうして、どうして」と過去を振り返って後悔するのではなく、理解しようとしてみるのです。
「なぜ、その魂が自死というものを選んだんだろう。人間としてこうやって生まれてきたにもかかわらず、どうして生きることではなく死ぬことを考えんだろう」
そう理解しようとすることで、その人は、死ぬこと、生きることに対して深い洞察を得るチャンスを受けとることになります。

「後悔ではなく理解を」と言われても、「こんなの、ひどい。放り投げられたみたいで、怒りしか湧いてこないわ」という人もなかにはいるでしょう。「こんな勝手なことをして」「私たちを置いていって」と。
もちろん、そうした反応が悪いわけではありません。そう思う自分がいるのですから、まずは「そう思っているんだ」と認めること。その感情に蓋(ふた)をしないでほしい、と思っています。
ただ、そこで止まってしまっては、何の進歩もありません。
なぜ、大切な家族を、友人を、恋人を自死で失うということを経験したのか。
僕たちは、どんな経験であっても、無駄に経験することは、絶対にありません。
この世界には、それぞれがテーマをもって学びに来ているのですから、すべての経験がそのテーマに何らかの形でかかわっています。

そういう大きな視点をもつと、それが自死であれ、交通事故死であれ、自然死であれ、もっと違う角度で「死」というものを捉えることができるようになります。
それによって今、生きている僕たちの意識が大きく変わると、その意識の変化によって、より人生を充実させることもできるようになります。

たとえば、大切な人の死をきっかけに、自分自身の人生の意味を深く考えるようになったり、スピリチュアルなことに関心をもつようになったりする人もいます。
大きなインパクトのあることを体験したということには、何か意味があるのです。
世の中には、そうした大きな出来事とは無縁に暮らしている人もたくさんいますよね。かと思えば、お父さんも自死して、おじいちゃんも自死してというように、身近な人を立て続けに失う人もいます。
そうしたことを体験するのには、やっぱり何か理由があります。
「それにどう私は向き合っていく必要があるのかな」と考えるには、大事なのは、後悔ではなく理解なのです。大きな視点で理解しようという意識で見ていかなければ、なかなか気づきは得られません。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 第4章 より 並木良和:著 PHP研究所:刊

魂レベルの視点で眺めれば、自死も交通事故死も自然死も一緒です。
その体でやるべことはやり終えたということ。
つまり、それがその人の寿命だったということす。

死については、どんなものであれ、相手に対する敬意を持つこと。
後悔ではなく、理解する姿勢が大切です。

後悔のない人生を生き切るには?

私たちが、肉体をもってこの世に生まれたのは、五感というものを最大限に体験し、肉体を使って行動に移して、体験できることを貪欲に体験するためです。

並木さんは、生まれてくるときに自分自身で設定したテーマや使命、学びたいことのために必要なことを体験する。そして、成長する。そのためにここに来ていると述べています。

 ところが、「ミディアムシップ」といって、亡くなったお身内の方やお友だちなどの意識とコンタクトを取り、彼らのメッセージを生きている方に伝えるということを行なうと、ほとんどの方、もう9割以上の方が後悔していることは何かと言ったら、「やってしまったこと」ではなく、「やらなかったこと」なのです。
後悔というのは、いろいろな感情のなかでも一番、重たい感情です。
どうしてあれをやらなかったんだろ、どうしてあの人にそれを伝えておかなかったんだろう、なぜ、あそこに行かなかったんたろうーー。
やりたいと思っていたのに、または、やろうと思っていたのに、やらなかったりやれなかったりしたことに対する後悔というのは、とても重たくのしかかります。
たから、この人生を充実させて、向こうの世界でもスッキリと存在したいと思ったら、まずは今の人生をしっかりと生きること。

では、後悔しない人生にするにはどう生きたらいいかというと、毎日、「もうこれでおしまい、今日が最後」という意識で生きるということです。
これはネガティブなことではありません。「今日が最後」だと思うとは、本当に「今」に100%集中するということです。
言い換えるなら、毎瞬、毎瞬を全力で生きる、自分に一致して生きるということ。自分を大切にする生き方です。
たとえば、自分のなかで「こうしたほうがいいな」と思っても、「あとでいいか」「面倒くさいから明日にしようかな」などと後まわしにしてしまうことがありますよね。そういうことを極力減らすことです。
もっと具体的に言えば、誰かに「ありがとう」と思ったときに、「明日言えばいいや」と思うかもしれませんが、あなたに明日があるとは限らないわけですよね。であれば、「ありがとう」と思ったときに、「あ、ちょっと待って!」と声をかけてでも「ありがとう」と伝えるのです。
そうやって一瞬一瞬を丁寧に生きる生き方が本当に習慣になっていったら、「やりたいと思っていたのにやらなかった」「やろうと思っていたのにやらなかった」という後悔はなくなっていきます。それに応じて、死に方も良いものになっていきます。
簡単にいえば、自分をないがしろにすればするほど、ネガティブな死に方をすることになり、自分を大事にしていけばいくほど、死に方も良いものへとシフトしていくのです。
つまり、「今」に集中する、「自分」に集中することがとても大事です。

まず、「『今』に集中する」とは、今この瞬間しか“ない”からです。
過去というのは、すでに過ぎ去っていますよね。だから、ありません。
未来というのは、まだやってきていませんよね。だから、ありません。
「じゃあ、何があるの?」と言ったら、今この瞬間しかありません。
「でも、明日はやってきますよね」と思うかもしれませんが、“明日”という瞬間に自分が立ったら、その瞬間は「今」になっています。
つまり、今の連続でしかなく、僕たちは「今この瞬間」しか生きられないのです。
それが、真実です。
だから、今に集中するのです。

それなのに、僕たちは意識をあちこちに飛ばしてしまいます。
まだ起きていないことを「ああでもない、こうでもない」と心配してみたり、過ぎ去ったことを「あのとき、どうしてあんなふうに言っちゃんたんだろう、言わないほうがよかったんじゃないか」とあれこれ思い悩んでみたり・・・・・。
あるいは、仕事をしながら「ええっと、今日は何を食べようかな」などと考えるのも、今ではないどこかに意識が飛んでいます。
そうやって、どうのこうのと過去のことや未来のことを考えている間に、今という瞬間はどんどん、どんどん過ぎ去っていきます。
では、「この大事な『今この瞬間』はどうなっていますか?」と聞かれると、
「あれ、何があったっけ? 誰がいたっけ? あの人どんな格好してたっけ?」
と、何もわからないわけです。
”今この瞬間”しか存在していないのに、そこに生きていないのです。

今この瞬間しか存在していないということは、今ここにすべてがある、ということ。
なので、“今この瞬間”に集中してさえいれば、どうすればいかが明確にわかります。どう行動すればいいのかもはっきりとわかるようになります。

「今」から意識が離れて、ボーッと過去のことを後悔してみたり、未来のことを憂(うれ)いてみたりすると、迷いや苦しみが生まれます。
過去に起きたことはもう過ぎ去ったことなのだから、今は起きていません。「過去にこんなことがあってね」といっても、今は起きていませんよね。
今この瞬間は、何も問題はありません。
なので、この瞬間だけに集中していれば、本当に迷いや悩みから解き放たれることになります。これは、仏教の教え、仏陀の教えでもありました。

では、どうしたら“今この瞬間”だけに集中できるようになるのでしょうか。そのためには、意識のトレーニングが必要です。
仏陀が教えたように、すべてを意識的に行なうのです。逆にいうと、何事も無意識に行わないということ。

僕の場合は、ガイドから教わりました。「今この瞬間に集中するために、すべてを意識的に行なってごらん」と。
たとえば、玄関を出るときにも、「靴を履く」「鍵を取る」「鍵を開ける」「玄関のドアを開ける」「玄関を出る」「玄関のドアを閉める」「鍵を閉める」ーーと、一つひとつの動作を意識して行なう。物を動かすときにも、「今、これに触れて今、こちらへ動かしている」と意識して行なう。
呼吸一つとっても、ただ無意識にスーハーと行なうのではなく、「今、呼吸をしている」と意識してみる。それも、「今、吐いている」「今、吸っている」と、一つひとつ丁寧に意識して行なうのです。
このように一つひとつの動作を意識的に行なっていたら、今この瞬間以外のことをあれこれ考えることができません。
悩んでいる暇がないわけです。
つまり、あちこちに意識が飛ぶのは、意識が暇な状態だから。”暇”だから悩めるのです。
たとえば、今日生きることに必死な人に「悩んでいますか?」と聞けば、「悩んでいる暇なんてないですよ、もう朝から晩まで働かなきゃいけないし、子育てもあるし」などと答えるでしょう。
だから、”今この瞬間”に集中するうちに、僕は「悩めるというのはある意味、幸せなこと。ああ、贅沢なこととも言えるんだな」と気づきました。「だから、いい」という話ではなく、意識が暇になっていると、あちらこちらに飛んでしまうということです。
なので、ちゃんと“今この瞬間”という大切な瞬間に集中できるように、意識をトレーニングしてきましょう。

『最高の死に方をするための最高の生き方』 第5章 より 並木良和:著 PHP研究所:刊

「今、この瞬間」は、つねにニュートラル。
良いも悪いも、ポジティブもネガティブも、損も得もありません。

すべての悩み、苦しみ、問題は「今、この瞬間」から離れたときに起こるもの。
「今」を離れて、「過去」や「未来」に意識が飛んでいるということです。

「今」に集中する、「自分」に集中する。
すべての動作を意識して行なう。

より良い生き方、より良い死に方のために、ぜひ、普段から心がけたいですね。

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今、地球は「風の時代」と呼ばれる、とても軽やかな時代に移行しています。
それは、僕たちが本当にやりたいことをやりながら、ちゃんと生きていけるシステムができあがっていく時代です。

並木さんは、自分の人生を変化させたいと思ったときに時間をかける必要はなく、ただ「変える」と決めるかどうか、それだけだとおっしゃっています。

私たちは、「人生を変えるのは、簡単じゃない」と思い込んでいます。
しかし、それは古い「地の時代」の話で、時代遅れの考え方。

「私たちは、誰でも、自分が望む生き方ができ、なりたい自分になれる」

そんな新しい“常識”をインストールする。
そのためには、ゴール、つまり「死に方」からアプローチするのは、とても有効な方法です。

「死」に対する見方が変われば、「生」に対する見方も変わります。

“視えない世界”のスペシャリスト、並木さんが提案する「最高の死に方」。
ぜひ、皆さんも参考にしてみてください。

最高の死に方をするための最高の生き方


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