【書評】『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』(雲黒斎)

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 お薦めの本の紹介です。
 雲黒斎さんの『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』です。

 雲黒斎(うん・こくさい)さんは、広告代理店に勤められていた頃、あることがきっかけで突然霊的な目覚めを体験されます。
 その様子を書きつづったブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」は多くのアクセスを集める人気です。
 現在は、全国を巡って講演活動を行われるなど、活躍の場を広げられています。

『この世の仕組み』をもっと深く知りたい人に


 黒斎さんは、セロトニン欠乏症による記憶障害(うつ症状の一種)の薬の副作用から、突然に自分の守護霊(黒斎さんは「雲さん」と呼んでいます)と交信できるようになります。

 守護霊から「自分とは」「幸せとは」「人生とは」などと、いろいろなアプローチから『この世の仕組み』を説明され、それまでの価値観が一変するという体験をしました。
 その体験をつづったのが、前著の『あの世に聞いた、この世の仕組み』です。

 本書は、『この世の仕組み』について、黒斎さんが守護霊との対話をまとめた一冊です。
 対話のテーマは、「神がこの世を創った理由」「私たちがこの世に存在する理由」などなど。
 前著より、さらにスケールの大きなテーマをわかりやすく解説してくれています。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「生まれる」ものもなければ、「死ぬ」ものもない


 雲さんは、黒斎さんに、常識的には受け入れがたい真実、「死は存在しない」、つまり「僕たちは死なない(死ねない)」ことを告げます。
 その理由は、『「死ぬ」以前に「生まれる」こともないから』というもの。
 つまり、私たちは、最初から「生命」としてこの世の中に存在していたということです。

 生まれる前に「生きていない何か」であったことはありえません。
 私たちは、「生きていない何か」に生命を吹き込まれることで生まれてきた。
 そう考えるのは、単なる思い込みに過ぎません。

「当たり前」という刷り込みの中で、疑ったり、考えようとすること自体思い浮かばない。「ただの根深い思い込み」が「真実」だと勘違いされたまま受け継がれた結果だよ。もはや洗脳に近い状態だね。まぁ、みんながみんな「常識」だと思っていることを受け継いでいった結果だから、誰が仕掛けたって話じゃないけどさ。
 人間は「新しい命が誕生する」という根拠のない妄想(もうそう)を抱えているからこそ、世界を根本的なところから見誤ってしまうんだ。ありもしない死を恐れて、本来の生を見失う。
 これまでも、そしてこれらかも、「新しい命」が生まれるなんてことは起こらない。ましてや、それがなくなるなんてことも。
 同じことが、『般若心経(はんにゃしんきょう)』では「不生不滅(ふしょうふめつ)」という言葉で語られてるね。生まれないから、死ぬこともないと。命は分離も消失もすることなく、ただ脈々と生きつづけている。
「生命」は、一つ、二つと数えられるようなものじゃない。以前から話しているとおり、「個別に分離された状態で存在する命がある」という認識や、「私の命(命を所有している)」「誕生と消失が可能な命」という観念自体が誤ったものだ。
「生命」というもののとらえ方が根本的に間違っているんだよ。


 『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』 第1章 より 雲黒斎:著 サンマーク出版:刊

 一人ひとりが完全に別個の存在だとすると、「死」は「個人の死」として存在します。
 雲さんのいうとおり、個々の人間を「大きなひとつの存在の中の一部分」だとすると、「死」は存在しなくなります。

 なくなるのは「体」だけで、生命としてのエネルギー、つまり魂(スピリット)は永遠に存在するということ。
「個人の死」は、単に生命の形態が「変化」したに過ぎないということですね。

この世は、神がつくった「ゲーム」


 生命は生まれることも、死ぬこともない。
 それでは、この世界はなんのために存在しているのでしょうか。

 雲さんは、この世は、神があえて「思いどおりにならないようにつくった場」だと説明します。
 この世とは、神自身が「思いどおりにならない存在」として「思いどおりにならない状態」を経験するためにつくった場のことです。

 この世は、神のつくった「娯楽(ゲーム)」。
 私たちは、そのゲームのプレーヤーとしてこの世に降り立った「神」そのもの。

「この世」というゲームは、作り手も、プレーヤーも「神」というひとつの存在です。
 ただ、シナリオやルールをすべて知っていては、プレーヤーとしてゲームを楽しめません。
 そこで、神がこのゲームのプログラムに組み込んだのが、「神であることを忘れる」ことでした。

 自分たちが神であることも、この世がゲームであることも、忘れた状態でこの世に降り立った存在。
 それが、私たち「人間」です。

 いいかい? 「ゲームをゲームとして認識できていない」ということ、それがこの話の要点なんだ。
「人生がゲームだと見抜けていない」というのはつまり、「ゲームの世界が現実で、自分がマリオだと思い込んじゃっている」という状態だ。
 ゲームがどうして楽しめるかといえば、そこに「ゆとり」があるからだ。モニターの中に見えるキャラクターが自分ではないという自覚があるからだ。
 想像してごらん。おまえが「スーパーマリオ」で遊んでいるとして、そのときおまえがマリオに感情移入しきって、「自分はマリオそのもの」と思い込んでいたら、モニターの中で展開するゲームの世界を「これこそが現実だ」と思い込んでいたら・・・・その状態で冷静にプレイできるかい? ちゃんと楽しむことができるかい?


「・・・・、いや。たぶん怖くて、Bダッシュもできないね(笑)」

 だろう?  だからこそ、「人生は幻想である」ということを受け入れる必要が出てくるんだ。自分がゲームキャラクターではないという自覚が必要なんだ。しかし、人間にはその自覚がほとんどない。
 もし、自分のことをキャラクターだと信じ込んだまま、ゲームオーバーを迎えたら、つまり、現象界において肉体を失ったら、どうなると思う?


「人間が肉体を失ったら・・・・。霊になる?」

 そう、それが「三位一体」の中で残されていた「聖霊」。クリエイター(父)でも、キャラクター(子)でもない、「プレイヤー」としての意識状態だ。
 ゲームの世界からキャラクターが消えて、そこでようやく我に返る。「あれ? 俺、死んでないぞ? ・・・・、あっ、そうだった! ゲームしてたんだ!」って。
 そしてそれまでのプレイ内容(人生)を振り返り、壮絶な後悔に見舞われるんだ。「あぁ、畜生! 最初からゲームだとわかってたら、あのときああしてたのに、こうしてたのに!」って。


「マジッすか!? いや、でも、なんだかわかる気がするな、その気持ち」

 ゲームをしていたという自覚を失っていたからこそ生じる後悔、未練。それが次なる人生(輪廻転生(りんねてんしょう))の原動力となる

 『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』 第3章 より 雲黒斎:著 サンマーク出版:刊

 私たちは、ゲームの中のキャラクターではなく、そのキャラクターを動かしているプレーヤーです。
 キャラクターが死んでしまっても、何度でも気がすむまでゲームを楽しめるということですね。

 当初の神の意図どおり、多くの人は「この世は現実である」と思い込んでいます。
 つまり、キャラクターとして生きているということです。
 ゲームのキャラクターのまま生きるのか、それともプレーヤーであることに気づいて生きるのか。
 その差は、天と地ほどの開きがありますね。

「思いどおりにならない人生」も“シナリオ”のうち


 私たちの多くは、ゲームの第一面である「記憶喪失ステージ」にいます。
 自分がゲームの創造主であることを忘れ、キャラクターとしての自意識(自我・顕在意識)を持っている段階です。

 神が本来もっている、完全なる叡智(えいち)と無限の創造性(潜在意識・潜在能力)が封じられた状態で、いかにして数々の苦難を乗り越えていくことができるか。さまざまな障害が存在する中で、いかにして願望を成就していくことができるか。
 神が神であるがゆえに経験できなかった、そのエキサイティングな挑戦(ストレスの経験)こそが、このステージで求められているおもしろさであり、醍醐味(だいごみ)だ。
 人間(顕在意識)は何かと「思いどおりの現実」を引き寄せようと躍起(やっき)になりがちだが、「すべてを思いのままにすることができる」ということや「不可能、不都合、不満、不足といったものがまるで存在しない」という状況を、潜在意識は求めていない。
 それらは、神の意識領域においては当たり前のことで、実はもう、おまえ(神)はその状態に飽き飽きしていたんだ。
 だからおまえは、自分が当たり前に実現できることを叶えても、おもしろいとも、ありがたいとも思えない。逆に、なかなか叶いそうもないことが実現することの中に喜びを感じる。「そんなこと不可能だ!」という難題を乗り越えていく人を称賛し、その努力や成果に感動する。
 そうだろ?


「悔しいけど、そのとおりですね・・・・」

 もしおまえの中に「この世界が幻想であるはずがない!」だとか、「こんなに情けない僕が神だなんて、そんな話、信じられるはずがない!」という感覚があるのなら、それはまさにクリエイターの思惑どおり。
 愛を見失い、目の前に広がる世界に恐れおののき、さまざまな苦難を前にして、思いどおりの人生を歩めていないのであれば、この「忘却のステージ」においてのゲームが順調に進行していることを意味している。
 順調に進んでいるからこそ、このステージをプレイ中の人間は、自分が神であることを、なかなか認めたがらない。苦しみに悶(もだ)え、どんなに救いを求めているように見えても、本当の意味で救われようとは思っていないってことも、よくあるんだ。


 『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』 第4章 より 雲黒斎:著 サンマーク出版:刊

「不完全」な状態を経験しなければ、「完全」であることも経験できません。
 同様に、「苦しみ」の状態を経験しなければ、「喜び」も経験できません。
 すべてはクリエーター(つまり、神)の思惑どおりに進んでいるということですね。

 仏教でいう「悟り」とは、私たちは操作される側の「キャラクター」ではなく、操作する側の「プレーヤー」であることに気づくこと。
 つまり、「自我」は幻影であり「すべてはひとつの存在」であることを理解することです。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 なぜ、この世は存在するのか? 私たちがこの世に生まれてくる理由はなにか?
 神が存在するのなら、なぜ、この世から争いや苦しみ、悲しみがなくなることがないのか?

 人類が何百年、何千年前から、問い続けられている大きく思い命題です。
 本書は、そのようなスケールの大きな問題に、単純明快な答えを出しています。
 雲さんの説明は、荒唐無稽(こうとうむけい)のようにみえて、じつは理路整然(りろせいぜん)としていて矛盾がありません。

 信じられないからといって、「間違っている!」と一蹴してしまうのはあまりにもったいないです。
「これが、もし真実だったら・・・?」という視点で読み進めると、多くの気づきが得られることは間違いありません。
 黒斎さんのように、人生をガラッと変える瞬間が訪れるかもしれませんね。

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